【宿虎】1.呪わしい双子【呪術×ID:INVADEDクロス】

 

 2018年12月某日ーー
 発足後まもない警視庁の秘密組織『蔵』にて、職員達に激震が走った。

「2002年宮城県で起きた病院爆発事故の残留思念と虎杖悠一の思念粒子が一致しました………っ!」
「待て、当時彼は生まれたばかりの新生児だぞ!?そんな事があり得るはずがない………っ!」
「いや、それどころか微量の肉片しか残されない怪死事件、集団昏睡、行方不明………」

 蔵職員達は、監視カメラを映すモニターの一角に目を向ける。そこには保護(・・)された双子が仲陸奥ましげに寄り添っているのが見えるだけだ。
 不気味な程穏やかな光景に、知らず蔵職員達は息を飲む。

「彼らの周りで起こった怪事件、ほぼ全て虎杖悠一の思念粒子の型と一致しています………!」
 極度の緊張のあまり言葉を出すのさえ難しく、それでも無理矢理絞り出すかのような声色だった。監視カメラをのぞき込む彼らの全身に底知れぬ恐怖と死の気配が忍び寄る。

――一体、自分達は何を連れ込んでしまったのだろうか?

 ふと、双子の一人がカメラに視線を移した。「蔵」は連続殺人犯を収容する場所でもある。醜悪な人間を見慣れている蔵職員でさえも、卒倒してしまいそうなーーおおよそ人間が浮かべてはならない邪悪さを内包して笑った。

 ケヒッ
 ケヒヒッ………


***


 生ぬるい温もりが体全体を包んでいる。それを快と認識した胎児は薄ぼんやりとした意識をつなぎ合わせながら自分を取り巻く周りを意識した。
 母胎の羊水の中で、やっと胎芽から胎児と呼ばれ、脳や視神経が形成され始めているころだ。まだ目は形成される時期ではないが、その胎児ははっきりと己の側にある存在を意識する事が出来た。

 ――ああ、これは器だ。

 その日、呪いの王と呼ばれた特級呪物「両面宿儺」が母胎の中、意識を目覚めた。

 六道輪廻。魂は巡るという教えがある。六道の内、人間道は四苦八苦を味わうという。要は人間として生まれる苦しみ、病む苦しみ、老いる苦しみ、死ぬ苦しみを味わえと言うことだ。
 そもそも両面宿儺は遙か昔は人であった。その指が死後、呪物として人間界に存在し器である虎杖悠仁をもってして受肉し両面宿儺と器は混ざり合った。
 人間界にあったものがまた人間界にて魂を巡らせる。ごく自然の成り行きだった。
 あれだけ人を散らして弄んだにも関わらず畜生道に落ちてないところを見ると、結局人間道とはそういうものだろう。

 断続的に覚醒する意識の中で、宿儺は注意深く傍らの存在を注視する。すでに瞼が上下に分かれ、眼球活動が出来る時期にきていた。
 両面宿儺をその身に宿したまま死ぬことを選び、成し遂げた虎杖悠仁。器。それが傍らにいるのがはっきりと分かる。そして、それは混ざり合っていることも。
 一つの受精卵に二つの魂が入り、そして多胚化により分かれた。それがいまの二人だった。混ざっている。宿儺の体には悠仁がいて、悠仁の体には宿儺がいた。
 ただしく片割れになってしまっている現状を認識すると共に宿儺はまどろみに身を沈めた。

 己を殺す必要はないからだ。

 母の羊水の中で、不快に感じることはあまりにも少ない。
 ーー傍らには、片割れがいる。それは安らぎだった。

 そしてついに人間道においての一つ目の苦しみが宿儺に降りかかる。
 生まれ落ちる苦しみーー母胎から外界へ出ずるその不快さ。その不快さだけで宿儺は辺りを凪ぎ払った。正確には病院の西側を全てだ。一瞬にして辺りは地獄絵図となった。男女問わず悲鳴は引きちぎれ、轟音がとどろぎ、脆くなった建物がきしみを上げる。
 辺りを凪ぎ払った宿儺の隣で、腰を抜かした看護師から泣きわめく赤子が転げ落ちる。
 己の片割れ、そして再び現を共にする道連れ。
 片割れを落とした看護師の腕をちょいと凪ぎ払う。片割れを持ち支えることさえ出来ない腕だ、いらないだろう。
 そもそも前の世から自分の為に用意された器。死と共に魂が混ざり合い分岐し、再構成されて再び今世に産み落とされた、片割れ。
 片割れぐらいは大切にしてやろうと、これは情というものだろうか。混ざり分岐した故の感情を少しばかり面白く思う。

「ーーっ………じっ!!」 

 母体を傷つけた女が金切り声をあげた。子を産み落としたばかりで消耗しきっているだろうによく叫ぶ。
 すでに女より西側にいた医師も看護師も皆細切れの肉片になっている。分娩台から転がり落ち、むき出しの鉄筋や粉塵、破片を全て無視して血塗れになりながら這うようにして女は赤子を腕に掻き抱く。
 「悠一!悠二………っ!」
 産み落とした我が子達をなんとしてでも守り抜こうという母としての本能だった。その生ぬるい肉を感じながら、関心したように今世の母なる顔を眺める。
 そういえば昔、女を犯した時も傍らの四肢をもいだ母親は最後まで我が子を案じ泣き叫んでいた。
 ーーそうか、これが。
 呪いの王とその器の転生体を身に宿した女だ。近いうちに残穢にまみれて滅びるとしても、それまでは抱かれていてもいいだろうと生ぬるい肉に片割れと身を預けた。


***


「ゆーいち」
 弟の悠二が名を呼ぶ。まだ舌足らずなその声は随分と可愛らしいものだ。ちなみにそれは双子の自分にも言えることなので、兄である悠一はあまり喋らないようにしている。
 近い未来、それによって発達の差異が起こりえることは無視した。
「ゆーいち!むしすんなよぉ!」
 無視はしていない。顔を弟に向けている。きちんと。それでも返事を返さなければこのやりとりは悠二が疲れ果てるまで永劫に続く。
 はー、めんど。
「悠一、だ。そんなのんきな声でおれをよぶな」
 やはり舌足らずだ。己の声も。母親から可愛らしいっと黄色い悲鳴を上げられる類の。聞きたくなかった。
「悠一、ダメでしょう、お兄ちゃんなんだから意地悪しないの」
 縁側に面してる部屋で母親が穏やかに、そして僅かに陰りを見せながら微笑んでいる。
 どこからか桜の花びらが飛んできており、足下を薄紅色に染めていた。

 虎杖家に悠一と悠二が産み落とされてから、五年が経過していた。
 悠一と悠二は一卵性双生児だった。にも関わらず、互いに間違われることはないのがこの双子の特長だった。
 身体的な特徴はほぼ一緒。だが、まとう雰囲気や性格が正反対であること。退紅色(あらぞめいろ)の前髪を一方は上げ、他方は下げている。同じ形の目も、褪めたように物事を見る目と常時目を輝かしているとでは大きく違う。
 そして双子唯一の違いはその瞳にあった。悠一は深紅色、悠二は琥珀色。一卵性でも違いが出るものだと医者がゆるく首を傾げた。
 それなのに母親は悠一と悠二をよく間違える。間違えようがない筈がないのにだ。
「かーちゃん、きょうはからだのちょうし、いいの?」
 きゃらきゃらと悠二が縁側の縁石に飛び乗り行儀悪く母親にまぶりつく。
「悠一。うん、そう!今日はお母さん元気よ!今から花見しに行こっか!」
「かーちゃんまた間違えてるよ!おれはゆうじ!おとうとのほう!」
「あっ、もう………二人ともよく似ているから間違えちゃった!お母さんなのにね。ほら、悠一。貴方もおいで。おじいちゃんも誘って花見に行こう」
 気丈に振る舞っているが、母親の頬は痩け、元の柔らかさをだいぶ失っていた。五年。だいぶ持った方だ。
 母親という女がただの物言わぬ肉になるのも近いな、となんとなしに悠一は眺めていた。


***


ーーこの世界の話をしようか。

 時々兄である悠一は、尊大に、まるで自分が王のように語り始める。
 悠二にとってよく分からない言葉を巧みに使い、語りかける。そうして悠二の瞳を覗きこみ、少し落胆した後、いつもの兄へ戻る。
 つまらなそうに物事を見ているようで、少しばかりの好奇心を秘めて世界を見ている兄。
 双子の悠二だから分かる。悠一が何を思っているのかほんの少しだけ、時々たくさん。

 そしていつも話すお伽噺話が兄にとってとても大切で、本当であることも、やっぱり悠二は知っていた。

 知っているのと理解しているのでは全く意味合いが違う。
 悠二には兄の話は難しすぎた。だから、もっと大きくなって、兄のように賢くなったらちゃんと聞いて、ちゃんと分かってあげよう。きゃいきゃいと兄にまぶりつきながら、のんびりと思っていた。


***


 虎杖悠一は、足下にまぶりついて遊ぶ悠二を軽く蹴り飛ばしながら、つぶさに注意深く見ていた。
 両面宿儺と混ざり合い、再構成されて現世に産み落とされた虎杖悠二。
 両面宿儺の指で言うところの一本分は少なくとも混ざっていた。つまり虎杖悠二は今世にて両面宿儺の術式が刻まれている筈で、使用できる筈だ。
 が、術式を持っていながら、悠二にその才はなかった。

 さすがあの器の転生体、才能の如何を図る方が愚かと言うもの。
 器であった虎杖悠仁に対する感情は相変わらず『つまらない』一言につきる。自身と共に心中を選び成し遂げた男に対して疎ましさ以外にそれしかない。
 だが、片割れに対しては過分な情を抱いていた。この情が虎杖悠仁を取り込んだことから派生するものだとしても、今は己の身体に馴染んでいる。捨てる気はさらさらない。
 現在の己は両面宿儺の指19本分と完全体では決してないが、1本分である弟が死んだ時にでもその心臓なりなんなりを食らってから完全体になればいい。

 呪術師という外敵がいない故の呑気さが今世には備わってた。その呑気さが元々両面宿儺にあったものか、器にあったものなのは分からない。
 その呑気さが世界を救っている。今のところ。

 今、悠一と悠二がいる世界は、あの術式に縛られた世界とは違う。術式という概念が存在していない世界であり、その中で術式刻まれている双子は世界の異分子だった。
 術式が生まれながらにして刻まれていなければ呪術は使えない、というのはあの世界の概念であって、この世界ではそうではない。
 ある程度の知識さえあれば誰でも呪いを作り出せるし、物理的に作用するにはよほどの才と修行が必要だが、精神によるものでは誰でも呪いを作用することができた。
 例えば釘崎野薔薇が藁人形と五寸釘を用いていたが、そこまでの効力がなくとも媒体と作法を守れば誰でも出来る、正しく作法さえ守れば。神に代償を差し出して呪いを祈願することも出来るし、皆、等しくあの世界で言うところの『呪力』を作法をもってして『呪術』を使用できる。
 ただ、その作法は急激に近年失われつつある。継承者の断絶、口伝による歪曲化、劣化、etc.etc.

 要はないと一緒だ。もはやまやかし、スピリチュアル、カルトの類。宝の持ち腐れという言葉はこの世界の為にある。

 悠一は己の弟に術式を教えるのを早々に諦めた。いかんせんおつむが弱い。成長を期待しているが、あの器が将来の成長図なら期待できないかもしれない。
 期待値が低いものに投資しても仕方がない。見切りつけは早い方が双方にとってもいい。
 その代わりに、言霊の作法を教えた。誰でも持っていて、誰でも出来るもの。それでも彼にとって優位性を保てるもの。彼の中にある両面宿儺の呪力が増幅剤にもなるだろう。
 作法として覚えさせるにはおつむが弱いため、童遊びとして覚え込ませる。
 作用としては狗巻棘の呪言師に近いものだ。だが術式はその身に刻まなくてもいい。
 弟の言葉は、ひとつひとつが意味を持っていてそして強く心に突き刺さる。そこに言霊という『呪い』をのせればいいだけのこと。

 弟は兄の予想以上にその才を開花した。

 無意識に、無自覚に相手を操り、たらしこみ、自分の地位を確固たるものにした。決して誰も犯せない地位を築き上げ、悠長に笑う様を見て鼻で笑ってやった。
 無自覚とは本当に怖いものだ。相手を犯して侵略しているのに悪意の欠片もない。羽虫どもは皆、悠二の『善性』を信じてやまない。
 あの男がひとつ、意図を込めて毒を垂らし込めば瓦解するというのに。


***


 羽虫だった。

 己と、片割れ。それ以外は羽虫。

 かろうじて生み育てた母親という女と祖父は人間として見ていた。
 それも悠一の内情をよくよく知り、代弁できるものが居たら、「益虫に向ける感情と同等くらいじゃない?」の感情でしかないが。
 だが邪魔な羽虫を殺すのと、益虫を誤って殺してしまうのでは心情が大きく違うだろう。そのくらいの分別は悠一にもあった。
 片割れと、家族それ以外の周りは皆、羽虫。
 そんな世界で生きている悠一にとって、邪魔な羽虫をつぶすのは、とても簡単でなんの感慨も得ないものだ。
 
 邪魔な羽虫が片割れにまとわりついている。

 悠一は悠二の感じていることが分かる。
 悠二は悠一が感じていることが分かる。

 悠二が泣いている。不快さ、憤り、悔しさ、痛み。それが直に伝わってきて、不快だった。
 小学校の通学路、近道としても使う子供はいないだろう路地裏に、弟は追い込まれていた。路地裏独特の、生ごみが腐ったような湿度の高い悪臭が鼻につく。よく授業を放棄して学校中を走り回っている餓鬼ども4人組が、悠二を取り囲んでいた。

「兄ちゃんの事を悪く、言うな!お前らが言うな……!!」
「お前の兄貴がしゃべった途端にみんな狂ったんだぞ!?」
「あいつ一人だけ平気そうに立って、気味悪い声で笑ってた!」

 大方、前日にあったクラスの集団昏倒について言い争っているんだろう。
 全容はこうだ。自習時間、クラスの羽虫どもがあまりにも五月蠅いため、黙らせようと少しばかり呪い込めて言葉を発した。

『黙れ』

 俺は間違えた。加減を。羽虫は羽虫程度の耐久性しかないのをうっかり、本当にうっかり忘れていた。
 痙攣、嘔吐、呼吸困難、糞尿を垂らすもの、自らの顔に爪を立て掻き散らかすもの、隣の人間に噛みつき肉をかみ切るもの。
 脳髄や臓器が教室に巻き散らかす事態にはならなかったのが唯一の救いだった。
 人間の阿鼻叫喚図は好んでも、現代の衛生観念を獲得していた悠一にとって、少しばかり、いやかなりきつい。他人の体液を浴びることは控えたい。感染症は怖い。

 悠一の異変を察知したのだろう、誰よりも早く弟は駆けつけてきた。運動着を着ているが、体育館にしても運動場にしても随分距離がある中でよくこんなにも早く。相変わらずの健脚ぶりだ。
「悠一!」
 クラスの惨状には目もくれず、悠二は悠一の耳を力一杯塞ぐ。ほぼ掻き抱かれているといいほどの力だ。
 そうして一息つき、ようやっと目の前の惨状に目を向け、一言。

『みんな、眠って』

 悠一の呪いで精神のタカが外れた生徒たちは、悠二の呪いを聞いて眠った。昏倒といってもいい。

ケヒッ

 悠一は笑う。何だ、お前。分かっていたのか。(・・・・・・・・)

 もちろん休校騒ぎになった。

 その一部始終を餓鬼どもは見ていたのだろう、事情を聞き出す教員に必死になって訴えかけていたのを覚えている。教師に相手にされなかったら今度は悠二か。

「お前だっておかしいだろ、なんであんなことができるんだ!?お前が何か言った後、みんなして倒れた!」
「お前等兄弟、化けもんじゃねーのかよ!」
「ばけもの!」
「化け物!」

「いなくなれ」

 静かでおぞまし気な殺意だった。静寂下では聞こえただろう。が、がなり立てる相手には聞こえまい。それでは作用しない。だが、それでいい。

「お前らなんて、『いなく……っ!「領域展開」

――伏魔御厨子。

 悠一は悠二の首根っこをつかみ、足元へ放り投げた。一瞬の目くらましだが、事足りる。領域展開を極小に押さえ、そのままそこに四人を取り込み、文字通り細切れにした。元の人間であったかさえも分からない程の断片。
 肉片が多少落ちているが、まぁカラスの餌になって散り散りになる程度の話だ。その辺にいる猫の唸り声や頭上から餌を狙うカラスの目が光る。全く畜生道に属するものはなんと目ざといのだろうか。
 このくらいの浅ましさがあれば悠二も生きやすいだろうに。俺の一部が混ざっているとは思えないほどの有り様に軽くため息をつく。

「兄ちゃん?」
「悠一と呼べと言っている」
 足元で弟が見上げてくる。事態の把握を出来てない阿呆の面だ。
「なに、なにがあったの?」
「羽虫を追い払っただけだ」
「羽虫………?あいつらは………?」
「逃げたぞ?ほれ、門限が近づいておる。帰るぞ」
 狐につままれたような呆け顔を軽く叩きせかす。ええ………?と唸る弟の足が小さな肉片を踏んだ。泥にまみれたが、餌になるのだろうかと小首を傾げつつ追い立てる。
 領域内に羽虫がいるのは気にくわない。どこかの川にでも廃棄してやろうか。その辺のドブ溝に流してもいいが、多分詰まる。川の方が魚のいい餌にでもなるだろう。人が人力ではなし得ないほどの細かさだ、どうせバレん。

 ろくに監視カメラもついていない、片田舎での話だ。笑えることに、まことしやかにその地域内で崇拝される伝説になぞられて「神隠し」や「神の祟り」としてささやかれ、そのままお蔵入りとなった。いつの時代も人間は不可解なことは神のせいにしたがるのは変わらんか。

「にいちゃ………悠一。あいつらどこに行ったんだろうな。俺、あいつらに、最後……」
「お前は言い切ってない」

 お前の仕業ではない、と暗に伝える。じゃあ悠一の仕業なのか? そんなことは聞かない悠二は分かっている。悠一は頷いて、ケヒケヒ笑うだろうと。それを恐れ、真実までたどり着こうとしない。

 まぁ、弟の仕業であろうが俺の仕業であろうが結果は変わらん。

 羽虫は消えて『いなくなった』だけだ。


***


「貴方、本当は悠二でしょう」

 入院病棟の独特な匂いは鼻につく。その中の一つのベットに身を横たわらす母親に呼ばれ、悠一は傍らの椅子に座っていた。
 すでに中学二学年になり、悠一は学ラン服に身を包んでいる。しぶとく現世にしがみつく母親にはある一種の敬いを持っているが、とうとう耄碌してしまったかと目をすがめた。
「なにを言う」
「貴方は悠二。そうでしょう?」
 静かで凪いだ声だ。残穢にまとわりつかれ、蝕まれていてなお、強さを秘めた声だった。
 悠一はひとつ身じろぎして、母の目を見た。母親が何を言わんとしているのか、察してしまったからだ。

「双子だものね、本当はどちらでもないかもしれないわ………。あの事件でどちらが悠一で悠二なのか誰も分からなくなってしまった」

 本来、赤子は生まれてすぐ足に識別タグを巻かれる。赤子の取り違えを防ぐための病院側の工夫だった。双子とあって、細心の注意がなされたはずだ。
 それが意味をなさなくなったのは、宿儺が生まれてすぐに不快によって病院を吹き飛ばされ、赤子の足に取り付けていたタグは紛失した。
「でも思い出した。先に産んだのは琥珀の目。そして次いで赤い目を。ああ、きっともう私は死ぬのね。これは走馬燈かしら。ねぇなら、もういいわね、もういいわよね………」

 もう恐れてもいいわよね?

「許す」
 鋭く、尊大な声で女が恐れるのを許した。
 ふふふ、と小さく笑いを乗せながら、女は目を細める。恐れることを許したにも関わらず、その目は我が子をみる眦の柔らかいものだった。
 おうさまみたいね。

「貴方が生まれてすぐ、………そう、生まれてすぐ。貴方を起点にして病院の半分は吹き飛んだ。まるで紙で出来た建物みたいに、あまりも簡単に」

………貴方の仕業でしょう?

 喘ぐようでいて、弱々しさの欠片もない。ただ知っている、と答えをその舌にのせる。

「私はいったい何を産み落としてしまったんだろうって思ったわ。人間の形はしている。しているのに、我が子の形をしているのに。なのにこんなにも恐ろしい。轟音と、悲鳴が聞こえる中で貴方は産声を上げた。まるでせせら笑うかのような、全て嘲け笑うかのような……」

ケヒッケヒヒッ

 それが問の答えだった。
 女が目を見張る。恐れをあるだけ抱いた目は、すぐに細まった。ゆっくりと衰えた手を伸ばしてケヒケヒ笑う悠一の頬に手を添えた。
 それをはたき落とす事はせず、女の好きにさせた。

 今際の女に真実を悟られたところで何ができる。そう悠一は高をくくっていた。ぬるい温度の肉を享受してやるのも、この薄寒い語らいもただの茶番。己と片割れを産み落とし、育てた女への気まぐれなる褒美だった。

 真名は誰にも悟られてはならない。
 呪いを身に置くものなら、当たり前のこの世界の常識だ。
 兄の虎杖悠一の本当の名は『虎杖悠二』。
 弟の虎杖悠二の本当の名は『虎杖悠一』。
 この女はもうじき死ぬ。己を誰にも呪わせる気はない。悠一さえ知っていればいいだけだ。
 だが悠一は知らなかった。

「『悠二』(・・)」

 今際の言葉がどれだけの強さを持つか、悠一は知らなかったのだ。

「『悠一』(・・)をよろしくね。どうかあの子だけは、大切にしてあげて。側にいてあげて」

 真名を持ってして、女は呪いを植え付けようとしてる。ここで初めて悠一の肌が栗立つ。死の定めを知っている母親の目を直に見てしまった。
 呪いの目だ。母の愛という、呪いの目だった。悠一の了承の如何によって成立する『縛り』とは違う。
 真名に呪いを込め己の命を燃やし行う、一方的で、解呪の術がない『呪い』。

「『悠二』(・・)、幸せになりなさい」

 そのまま母親は息を引き取った。母親だった女の亡骸の手は、動きを止めて悠一の太股に投げ出されている。それをつと握ってみた。生ぬるさが徐々に、徐々に消えていくのを肌で感じる。
 異変を悟った看護師が様子を見に来るまで、悠一は母だったものを眺め、そこに座り込んでいた。


 隣で悠二が泣いている。その隣では祖父が火葬場の煙突の煙を見上げている。
 薄ら寒さを抱きながら、隣の片割れに請われるまま胸を貸してやる。片割れの生ぬるさを通り越して熱い体温を感じながら、煙を目で追う。
「俺、母ちゃんの最後、間に合わなかった………最後に、会いたかった………っ」
 弟の後悔と悲しさが直に伝わってきて気持ちが悪い。この男は感情の振れ幅が常人よりも大きいのだ。払いのけてやりたいが、払いのけてもまぶりついてくるのは目に見えているので無駄な労力は使いたくない、とそのままに好きにさせる。
「でも、悠一が側にいて、くれたん、だろっ………」
 顔を上げた弟の顔は涙で目がふやけ、鼻水は垂れて崩れ果てており、見るのも不愉快だ。
「ありがと………」
「礼を言われることはしておらん」
「かーちゃん、ひとりぼっちで、っ逝かなかった、からっ。悠一も、泣いて、いいん、だよっ………うぐっ………う~」
「何故俺が泣く?」
 この阿呆は何を言っている。お互いにきょとん、と顔を見合わせる。阿呆面がさらに崩れた。それは哀れみの色に近い気がした。

………だって、悲しいって言ってる。

「かなしい?」
「悠一に分からなくても、俺には分かる。片割れだから、俺にはっ、ぐぅ、わ、が、る………」
 そうだ、分かる。弟の悲しさは伝わってくる。だから悲しいという気持ちがどんなものか知ってはいる。だが。
 己の心の内に、同じようなものがあるとはどうしても思えない。
「双子だからだろうなぁ、前に母さんが言っておったな。二人は繋がっておると」
 ぐしゃりと分厚い手が頭に乗った。そのまま髪をかき混ぜられる。瘤だらけの、指の長さが人より少し短い、歪な手のひら。若い頃に製材所で指を一部切っちまったと笑っていた、祖父のものだ。
「ジジイ」
「俺には親戚はおらん。俺がどこまで生きれるかわからんが、それまでは俺を頼れ」
「じいちゃん………っ」
「悠一。今は代わりに弟に泣いて貰え、おう、悠二泣け泣け、代わりに泣いてやれ………」
 俺は手続きをしてくる、と悠二をひと撫でして祖父は離れていく。

 火葬場は静かだった。親戚がいないというのは本当らしい。祖父と双子以外に人影は見あたらない。父方の話も聞いた覚えが無かった。
 うぐっ……うぇ……うっ……
 弟のえずき声に嫌気がさして静寂に耳を向けていると急に悠二が顔を上げた。
「な、なぁ………かあちゃん、最後になんて言ってた?」
 潤んだ琥珀の瞳は、母譲りか。ならこの深紅の瞳は誰のものだろうか。

「……お前に幸せになれ、と」

 悠二はまた泣き出した。結局、骨上げもほぼ悠一と祖父が行った。
 お前は親不幸ものだな、と零せば何故かそこで悠二がほころんだ。


***


 2018年6月某日。
 母親に続いて、祖父も死んだ。あっけないものだ。不整脈で倒れ、入院二日後に見舞いに来ていた悠二の目の前で死んだらしい。葬儀は行わず、直葬の形をとった。未成年のみなのだ、まともな葬式を上げることはできない。
 不思議なことに、また大仰に泣くと思った弟がとても静かだった。伝わってくるものも想定と違い、随分と混沌としている。肉親を亡くした悲しさの類ではない。怒り。そして自棄にも近い悲壮感。これはなんだ?いままでに悠二が抱いたことがないだろう類のものだ。
 自宅に戻り、骨壺を簡易的な仏壇へ置くように促すも反応を返さない。骨壺をしかと抱きしめる手は震えている。
 ――こういう時は、悠一が手を握り締めてあげてね。
 母の言葉を思い出す。その通りにしてやれば簡単に震えが収まることを知っていたのでそうしてやった。そうすれば、少しは青ざめた顔色もまともになるのではないかと。

 ガチャンッ

 祖父の骨壺が床に落ちる。覆い袋があるので割れはしないが、中の骨は溢れているだろう。
「おい、どうし………」

 骨壺に気を取られていた。ひゅっという空気音で、悠二が腕を振りかぶったのを知る。勿論避けたが、そのまま胸倉を捕まれ真正面から相対する。

「宿儺………っ!」

 琥珀の目が、絞り出す声が。殺意に燃えていた。望みを抱くたびに丹念に丹念にすり潰し、穢し、絶望を擦り付けた、かつての器。その瞳だった。

 悠一はそれなりに悠二を大切にしていた。情というものを、確かに持っていた。それも消え去るほどの歓喜が沸き上がる。
「――ハハハハッハハハハハハハッ!!!!!」
「両面、宿儺………ッ!」
 ひしゃげた声でかつての名を呼ばれる。弟は思い出したのだ、両面宿儺の器であった時を!
「小僧!貴様思い出したか………!呪わしいなぁ、俺を道連れにしたと思えば双子として生まれ落ちるとは………!それを知らずに兄として俺を慕うお前をどれだけ嘲け笑っていたか!」

 ゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラ!!

 悠一の嘲笑が響き渡る。今世にて、ここまで面白いことがあるとは思わなかった。これまで外敵のいない安寧を享受し、退屈に過ごしていたがそれも今日まで。これからは器がかつてのよう絶望にまみれ嘆くように、どう振舞おうか。幾多の筋書きを想い、背筋から燃えるような甘美に震える。
 それも悠二の言葉を聞くまでの間だけだった。

「俺を殺せ」

「は?」
 悠二の殺意の対象は悠一ではなく、悠二自身だった。かつて渋谷を更地に変えた時も、両面宿儺ではなく自身に殺意を向けていた。真人には純粋に殺意を向けていられたのにも関わらずだ。

「俺を殺して……殺してくれよ……」

 歓喜は消え去り、胸に疼くものは何か。

「悠二」

 今世の名を呼んだ。片割れとして生まれてからずっと呼び続けていた名前だった。

「殺してくれ、殺して………嫌だ………もう嫌だ………」

 悠二。

 悠一は悠二を悠一なりに大切にしていた。
 呪いでしかない両面宿儺が虎杖悠仁と混ざり、そして人間として生まれたのが虎杖悠一だ。呪いが本質であり、人間であるのも本質だった。

 悠二。

『俺を殺せ!!』
 
 言霊の作法に則って、それは作用した。
 悠一が教えた通り、完璧な作法だった。

 悠一の腕が悠二の腹を突き破った。悠一には一瞬で細切れにしてやる術式もあった。
 それでも。
 彼が望んでいたのは苦痛だったからだ。
 死を望んでいたからだ。
 苦痛を最大限に与えた上で殺せ。そう悠二は悠一に命じだ。

 悠二の心が悠一へと伝わった。

 それは酷く甘美な。

***


 台所の天井が視界一杯に広がる。幼少期は母にお菓子をねだってだだをこね、台所にひっくり返った記憶はある。その時のままの天井だ。なるほど、一応見慣れた景色である。

 ーーどういう状況だこれ?

 悠二は腹筋を使って勢いよく跳ね起きる。腕が赤黒い。しかも皮膚の動きでパリパリと剥がれ落ちる。

 ーー俺、何の液体をかぶっちゃったの?

 次いで足下を見てみる。これまた赤黒い。虎杖家は古い。つまりボロい。フローリングなんてひいていない床はただの木だ。液体をよく吸う。そしてシミになる。よく幼少期……いや今もこぼして注意される。
 それにしても赤黒いシミ、あんまりにも広範囲すぎる。コップは落ちていない。悠一がコップだけは危ないからと片づけてくれたのだろうか。
 あの兄が?そんな親切ではない。
 首を振り、ようやく周りを見渡した。

「なんだこれ殺害現場か」

 台所一面に、血がこびりついていた。よくあるB級殺人鬼ものの映画のあれだ。そのセットによく似てる。そのまんまだった。制作スタッフすごい。

「あ」

 血が足りていないのか、ようやく現状の理由を思い出す。この赤黒い液体だったもの(今はガビガビ)俺の血か。そんでもって腹部をよくよく見ると服が破れている。そこを起点に赤黒いシミが広がってる。ついでに肉片もその辺に落ちていた。腸だ。正しく認識した途端、あまりのグロさに吐いた。

 あーあ。
 あーあ、それが今の率直な心境。
 なんで俺とお前、こんなになっちゃったの。なんでこんな風にしかなれなかったの。
 
 知ってる、俺が人間で、そんでもって『呪い』が何かさっぱり全く分かっていなかった。
 よくある少年マンガみたいに異形の化け物が主人公に封印されているとか、パズルを解いたら宿った闇の人格とか。頼り頼られて、信頼関係を少しずつ築いていって。相棒みたいな関係になれるって、嘘みたいに楽観的に心のどこかで思ってた。
 「宿儺を喰う」ことは「俺にしか出来ない」って自分が特別な存在だとちょっと調子に乗って。強い先生も、仲間もいるから大丈夫だって安心して。
 『呪い』が何か分かりもせずに。
 『呪い』だよ、『呪い』。B級ホラー映画でもジャパニーズホラーでもよくあるじゃん。
 『呪い』は人を殺す。理由なく殺す、理由があっても殺す。ただそこにあるだけで殺す。そこにいたから殺す。
 なんだ、分かっていたのにこれか。

 両面宿儺は『呪い』だ。そして虎杖悠仁は「人間」だった。

 相寄るなんて初めから出来ないって本当は知っていただろう?

 ボーンボーンボーン………

 古くさい振り子時計が鳴り響いた。時刻は深夜1時を過ぎている。腹部と背中、貫通して穴が開いた体は元通り、手足の痺れもない。
 どうやらあの後、反転術式で治されたようだ。なんで?疑問に思いながらも無理やり身体を起こし、のろのろと廊下を移動する。悠一に割り当てられた部屋のドアはほんの少し開いていて、暗闇の中でチカチカと光が漏れている。
 毎度おなじみの夜更かしで、たぶん動画サイトを見ている、そんな気がした。

 うん、やっぱりスマホ片手に悠長にベットに腰かけていた。待ってお前も血まみれじゃん。

………悠一は泣かない。

 混ざりあって、生まれ直して、それでも虎杖悠仁が渡せたものは、情は、あまりにも少ない。宿儺の指で言うところの一本分、二十分の一だ。そのぐらいの案配。
 誰も彼が泣いている所を見たことはなかった。
 今だって別に確証はない。暗闇の中で、めまぐるしく変わる画面をなんとなしに見ている。その目は充血しているけど、画面を近くで見すぎだ。そりゃ充血する。
 そうでしかないけれど、慟哭しながら自分を治した悠一が浮かんだ。

 虎杖悠仁の最後は覚えていない。ただ二十本、確かにその身に取り込んでやったのは覚えている。そうして共に殺されてやっただろうことも。共に死んだことも。
 数ヶ月か、一、二年かは知らない。
虎杖悠仁が両面宿儺の器として存在した期間なんて、そんな僅かなものだ。

 なぁ、俺たち片割れとして何年過ごした?十五年だぞ。人生八十年としてもそれなりの割合だ。

「ゆー……いち」

 ああ、馬鹿だなぁ。お前。
 悲しいも知らないのかよ。
 お前、本当に人間だった時あんの?人間一回目の人間にだってばかにされるぞ。人間二回目とか何のジョークだ、生ぬるい目で見られんぞ。

「泣くなよ」

 泣かないでくれ。


***


 ゴメン……ゴメン。

 さっきまで死体だった奴がいきなり動き出して抱きついてきた。心情としてはそれによく似てる。お互いに乾ききった血がすりあって、なんとも言えない感触に肌がくりたつ。つまり気持ちが悪い。
 もう悠二は理解した筈だ。俺が何で、お前が何であったのか。
 この状況下で、どうして俺に謝り、抱きついてくる。感情は分かっても、行動の理由がいちいち分からないのがこの男だ。いや、器の時もそうだったが今の方がより顕著になった。

「何故、貴様が謝る」
「俺はお前と過ごした15年、蔑ろにした」

ごめん、悠一。

 また肩を震わせて、泣き崩れ始めた。よく泣く子供だ。泣くことが許された、子供だ。泣いてもいいと、ずっと許し続けてきたのは。
「見苦しい。何故泣く?」

「お前が………っ!お前が泣かないから代わりに泣いてるんだよ、この馬鹿っ……ぶへっ!」
 少し許してやったらこれだ。やはり小僧は小僧でしかない。恩を仇で返すのはこいつの十八番、すぐ調子にのる。
へばりついているので脇腹に拳を入れてやった。二度。
内臓に直に響くように拳を入れてやったので、悶絶している。いい気味だ。それでも、小僧は抱き締める力を弱めない。
「お前が………っ!泣かないから………」
「俺が泣く?何を言っている?あの女が死んだ時も言っていたな貴様は」
「じゃあなんで俺がこんなに泣いてんだよ、俺はそこまで泣かねぇよ!俺だって男だぞ、ここまで、人前で馬鹿みたいに泣いたりしたくねぇよ!これは俺の気持ちじゃない……お前のだよ。悠一のバカやろ………」

 ぐぅ、う……っ……うぅ………
 すすり泣く声が大きくなる。否応なしに流れ込んでくる、形のない不快さ。

「泣くな、不愉快だ。お前の気持ちとやらが流れ込んでくると前から言っているだろう。おい、小僧」
「だから!これは回りまわってお前の気持ちだよ!それに、悠二!小僧じゃなくて俺は悠二だ……、悠一は悠二って呼ぶ……!」
 かじりついてくる小僧を無理矢理に剥がした。掴んだ肩は明日辺りには青アザになっているだろう。それでも構わないと小僧はしかと此方を見据えてくる。琥珀の目が溶けそうなほど潤んでいる。

「………貴様にとって俺はなんだ」
「両面宿儺。俺はお前の入れ物で、お前が好き勝手やって、辛くて、悲しくて………俺はお前と死ななきゃいけなかった。でも、今は俺の片割れだ、大事な家族だ………」

 溶けた瞳が自分を映す。不思議と、自分がどんな顔をしているのか、できているのか分からなかった。

「なぁ、辛いよ、前はお前の罪は俺のものだった。なのに今はお前がどんなに罪を犯しても俺のものにはならない、俺は背負えない」
「器の時が良かったと言っているように聞こえるが?」
「いーわけないだろ、もう散々だ。でも、もう。なんで……お前いまも好き勝手しすぎ……」

 器であった虎杖悠仁。
 『つまらない』小僧だった。
 小生意気に鳴いて、都合よく俺にすがり付いたと思えば、気にくわない事ばかり起こす。心に芯を折りにかかればまた立ち上がって進む。そうして行き着いた先がここだ。

 愚かで可哀想でどうしようもない餓鬼。

 ついぞ最後まで名前を呼んでやることはなかった。

 虎杖悠一の真名は「虎杖悠二」で『両面宿儺』ではない。
 虎杖悠二の真名は「虎杖悠一」で、『虎杖悠仁』ではないように。

 だか、この瞬間だけは、これが正しいように思えた。

「『虎杖悠仁』、縛りをなそう」
「っえ……」
「特別にお前に優位な縛りを設けてやる。さっさと言え」
「ゆうじって、え、お前……」
 こういう時だけは察しがいい。そうだ、分かるだろう。
「仁の字を持つお前に言っている。『虎杖悠仁』」
「『宿儺』」
 俺は今気分がいい、早くしないと取り消すぞ、と急かす。悠二は顔を赤らめ、モゴモゴと唇を擦り合わせてこちらを見ようともしない。さっきまで泣いていたのが嘘のようだ。俺が今機嫌がいいからか?
「『悠仁』」
 ああ、また弟の心が伝わってくる。不愉快なほどに生暖かく、快に至らない不確かなそれ。血にまみれた格好で兄弟ふたり、何をしているというのだろうか。


 そしてその日、『両面宿儺』と『虎杖悠仁』は一つの縛りをなした。


***


「殺せ」

『殺せ』

「殺して」

『殺して』

『俺を殺せ!』

『俺を殺せ、両面宿儺!』

 記憶が戻った弊害か。
 『両面宿儺』と『虎杖悠仁』として縛りをしてしまった故か。

 悠二は度々、悠一に死を願った。

 悠一は請われるままに、悠二に死を与えた。血にまみれた弟を、まだ息がある身体を抱き止める。そうして悠二は安堵しながら、死の実感を抱いて眠る。
 それしか安息はないのだと、ゆるく笑いながら。
 それは両面宿儺によって起こされた大量虐殺の記憶によるものだった。
 生きているだけで罪を増やしていく。殺したいほどに憎んだのは両面宿儺ではない。己だった。
 それを悠一は知っている。彼は両面宿儺だったからだ。知っていて、弟の血肉にまみれながら、悠二を抱き締めて眠るのだ。
 死の実感のみに安息を得る弟を心底愛しく想い、多幸に包まれながら。
 二人の共寝は幸せだった。お互いの胸が安息だった。
 呪わしいほどに。

 ところで二人の過度な感情は、お互いに届いてしまう事がある。双子特有の神秘だ。
 悠二が感じる自責の念や自身への強い殺意と憎しみは悠一に伝わる。その気持ちは悠一には馴染みの無いものであり、人間になってやっと少しばかり分かるようになったものだった。
 しかし彼は両面宿儺だったのだ。悠二のその強すぎる念は己に起因するものとして、喜びを持って迎えた。
 勿論その喜びは悠二にも伝わる。どんな感情であれ、喜びは喜びであった。
 歪ながらも、二人は喜びを得て眠りにつく。


 悠二の記憶が戻り、半年。その内に50回以上、悠一は悠二を殺した。
 最初は数を数えていた悠一も、無意味と悟って止めた。


***


 ーーこちら外務分析官、西野です。
 「ワクムスビ」強制起動。
 殺意の思念粒子を検出しました。

 場所は民間の家になります。思念粒子の移動はなく、固定されております!間違いなく「虎杖家」から強く発信がされています。突入の許可を。

 繰り返します、現在進行形で事件が起きている可能性あり!
 どうか突入の許可を!


次回「双子のイドの中」